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★アライヘルメットCEO 新井理夫さんのインタビュー

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やや唐突ではありますが、アライの社長である、新井理夫さんのインタビューがありましたのでご紹介。管理人もアライのヘルメットを愛用してまして、2度ほどアライのヘルメットのお陰で命拾いしております。

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父は大学に行かなかったんです。高校も中退していました。父は東京の帽子屋の息子で、バイクが大好きでした。当時はヘルメットなんてものは無かったので、父は麦わら帽でバイクに乗っていました。父はよく「俺はいいライダーなんだぞ。」と話していましたが、私はそうは思いません。でも父はバイクをとにかく愛していまいた。それに私もバイクが大好きなんです。

第二次世界大戦の最中、兵士達は東南アジアに派兵されました。東南アジアはとても暑く、日を遮るものが必要でしたが同時に通気性も必要とされました。父は竹を加工して籠状に加工し、そこに手ぬぐいのような布をかぶせました。軍隊はそれを気に入ったのですが、それが父にとってはラッキーでした。徴兵されなかったのです。

 

戦後、父は新しいビジネスを始めようとしました。彼は開発が好きだったんです。単純に作ったり、買ったり、売ったりではなくてね。父が最初に開発しようと思ったものは炭鉱夫のための製品でした。炭鉱夫は頭を守るものが必要でしたが、その時代にヘルメットを作るということ自体新しい試みでしたので、一から全てを作る必要がありました。

 

その後、父は当時まだ存在しなかったバイク用ヘルメットの製造を手がけます。当初は炭鉱夫向けに作ったヘルメットの構造体を流用するものでした。1940年台の終わり、私は小学生でした。私は父がヘルメットを作っていたのを覚えています。確か最初のヘルメットのシェルはレジンでした。最初の国内のヘルメットの市場は賭博のオートレースでした。ダートトラックで行われるこのレースでは、ライダーに負傷は日常茶飯事でした。彼らは父にアプローチし、父はヘルメットを提供することにしました。日本で始めて商業用ヘルメットが生まれたのです。

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父は化学の知識は無かったのですが、グラスファイバーの記事を何かで読んだらしく”これはいいぞ”と話していましたね。父がどうやったのか未だにわからないのですが、大学の教授か何かに連絡をつけたようで、グラスファイバーでシェルを作るようになったのです。これは勿論国内では始めてのことでした。ライニングは当初はコルクを使用していましたが、そのうち発泡スチロールの事を知り、ライナーを発泡スチロールで作るようになりました。当然モールド(型)も存在しなかったので、父は一から全てを発明したのです。そしてグラスファイバーのシェルに発泡スチロールのライナーという、現代のヘルメットの基礎が完成したのです。


ロイ・リッチャーがオーナーのBellヘルメットというメーカーがアメリカにあります。彼らも地球の反対側でヘルメット作りを始めたわけですが、正直言ってどちらが最初だったのかは定かではありません。ただ、父は誰のこともコピーしませんでした。

 

父が始めるまでは、日本においてヘルメットのビジネスは存在しませんでした。父が始めたビジネスはどんどん大きくなりました。私はヘルメットと共に育ったようなものなので、ヘルメットは私の体の一部とも言えます。良いヘルメットを作るには、しっかりとしたテストをすることが重要です。当時はテスト用機材もありませんでしたので、父は一から全てを作っていました。とても原始的なものでしたが、ヘルメットの良し悪しを知ることは出来ました。その後、日本政府がヘルメットの基準を考える時に、彼らは父のところに聞きにきたものです。

 

父が発明したものに鳥かご状のグラスファイバーがあります。この鳥かご状のグラスファイバーを型に入れ、レジンを流し込み熱と圧力を加え、風船で圧縮しシェルが出来るわけです。父はこのような方法でヘルメットの基礎を作り、そして我々は未だにこのやり方に従っているのです。私はポカよけのシステム(フール・プルーフシステム)を考えたのですが、結局最善の方法は、一つ一つのヘルメットを丁寧に検査することだと気づきました。

 

父はレースがプロモーションになるとは考えておらず、そもそもブランドをプロモーションしようという気もありませんでした。でもこの事業が大きくなってきて商売になると考えたんです。私は車でセミプロのドライバーとして活躍しており、かなり腕が良かったと思います。しかしけしてナンバーワンになれないこともわかっていたので、ビジネスの世界に入りました。

 

父と私の違いは、私がレース好きだということでしょうね。私は勝ちたいんです。父はライディングを楽しんでいました。単純に幸せで健康であればそれが全てだったんです。ただ、私は勝ちたいんです。競合のヘルメットメーカーが出てきた時、アライは負けていました。ですから私は父に”ライバルはどんどん強力になっている。何か手を打たねば!”と訴えました。そこで父は”よし、じゃあお前がやってみろ”と言ったんです。これは1975年のことです。

 

ある日、バイク雑誌の女性記者が私のところに来て”これからどうするつもりですか?”と聞きました。そこで私は”Bellの後を追うんです。”と答えたものです。
レーサーに対しての安全性はまだ進化する余地がありました。ですから、私はレースシーンへの参加を考えました。正直に言って、国内を席巻するのに時間はかかりませんでした。1年と経たずに国内を全て抑えることが出来たのです。我々は知名度を集め、海外進出の時が近づいていました。

 

テッド・ブーディー・ジュニアは始めてアライのヘルメットを使用したアメリカ人ライダーです。彼は当時18でした。彼に始めてあった時、彼は”こりゃ、良くフィットするね!”と喜んでくれましたよ。彼と契約を結び、彼はアライのヘルメットを被ってレースに勝利しました。その場所こそがヒューストンのアストロドームでした。これにちなんで、未だにAstroという名前をラインナップに使用しているんです。

 

私は自然のデザインが好きです。私はヘルメットはいつもスムーズで卵のようなシェイプにしたいと考えています。シェルが頭の(丸い)形を参考に作られていなかったら快適ではないでしょう。もちろん卵のような形にすることを目標にしているわけではなく、とにかく快適なつけ心地を実現したいんです。快適性はプロテクション性能に直結すると考えているんです。

 

ビジネスは競争です。ビジネスに勝たなければ撤退するしかありません。ビジネスを続けるには儲ける必要もあります。勿論もっとビジネスを大きくしたいと考えていますが、一番重要なことは、さらなるプロテクション性能です。アライはヘルメットのシェイプを変えずに安全規格に適合させているんです。これはおそらくどこのメーカーも成し得ていないことです。我々が重視している”衝撃を逃す”という性能を保つには、ライナーの特性を部位ごとに変える必要があるんです。

 

私はスネル記念財団のスニベリー博士を尊敬しています。彼がいなければ、スネル規格も存在しませんでした。アライは常に1つ1つのヘルメットのシェルの製造に最大の努力を惜しみません。これが一番大切なことです。何も特別なシェルを作るということではなく、全てのシェルの製造にベストを尽くすことが大事なのです。

 

もし安全性を犠牲にした新モデルがあったとしても、これは何も革新的ではありません。コツコツと改善を続け積み上げていくと事こそ、アライの歴史なのです。よりよい安全性が何よりの目標です。これがアライの基本であり、我々は良いヘルメットを作らねばならないという使命を持っているのです。

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